金沢工業大学のC57


 C57トップナンバーとの重連イベント


 1983年2月

 世田谷公園に常設軌道が整備された情報が、金沢工業大学の村田外喜男助教授(当時、工学教育目的で5分の1スケールの蒸気機関車
 を製作していた)へ伝わり、開学20周年記念で製作された「初号機」D51 201(20周年の1号機で201)に次いで製作された
 「2号機」のC57 1号機(3年がかりで完成したばかり)を、世田谷公園へ持ち込んでの「運転会」申し入れが区に寄せられた。
  ※201号機の実機は、蒲郡市博物館でオハフ33客車と共に静態保存されている

 この申し入れを、区が快諾したことで初の「C57とD51重連運転」イベントが実現した。
 同大にとっても「5分の1」スケール蒸気機関車を製作後、常設軌道での「重連運転」は初めてとのことで、たいへん貴重な
 機会であった。
 (これまでは、仮設の線路を学内や河川敷に敷いて、学園祭や金沢市内のイベントで直線の往復で走らせたのみであった)
 
 冬枯れの中、冷たい外気のせいかシリンダーから吐き出された蒸気が長く尾を引き(ドラフト)、重連のブラスト音を響かせ実車に
 劣らない雄姿を見せたイベントとなった。


 機関車製作に関係した助教授はじめ学生さんが、遠路
 金沢からトラック2台で世田谷公園に到着、1t近い
 車体を線路に慎重に下ろし、翌日からの運転に備え
 車体の整備と調整が始まった。

 ←軸受け各所への「潤滑油分配器」と思われるボックス
  の中は、何やらカチカチと機械音がする精巧な動きが
  見られ、学生さんが慎重に調整をしていた。

 ※D51(チビクロ号)と同様に、煙突には
  「火入れ⇒昇圧」の際、煙室内を負圧にするため
  の排気ブロアー(横置きタイプ)が、つなげられた。


 C57の発電機は、D51(チビクロ号)のダミーとは異なり↓本物と同じ蒸気発電式で、ヘッドランプの点灯ができた。

 ←テンダーが連結される
  前にキャブ内を見る。

 こちらは、逆転器がキャブ
 天井左上に配置され、
 右は、蒸気圧計

 下から上へ伸びる配管は、
 テンダーからボイラーへの
 配管

 下には、給水用の
 インジェクターを配置


 C57始動
 
昇圧が完了し、金沢工業大学のヘッドマークと日章旗を掲げターンテーブルへ移動⇒ 村田助教自ら乗車、線路との相性を慎重に確認しながら試運転開始

 C57のブレーキは、D51(チビクロ号)の単純な足踏み式と異なり、エアーシリンダーでブレーキシューを動かす、本物と同じエアー式であった。
 使用するエアーは、テンダー後部に寝かせて置かれた小型消火器ぐらいの圧縮空気ボンベからの供給で、使いきりの交換式であった。
  ※ ボンベのエアー容量は、10分間隔程度の営業運転では十分足りるようで、営業時間中に不足し取り替えることは無かった。

 ←先に出場したC57に続きD51(チビクロ号)
  の出場

 前にC57がいることで、D51(チビクロ号)
 単機での発進と比べ、動輪空転の心配のない、
 普段の3分の1程度のトルク感で、いとも簡単に
 満員の客車を引き出せたのには驚きだった。
 重連の威力を十二分に体感できた、たいへん貴重な
 2日間となった。

 また停止時の制動も、C57だけの制動で十分に足り、
 我々D51(チビクロ号)側は、軽くブレーキを当てる
 程度で減速でき、C57の制動制の高さには脱帽
 でした。


 「チビクロ号」の運転経験を重ねることで、蒸気機関という原動機
 (外部のボイラーで発生させた蒸気をシリンダーへ送り、ピストンを
 往復させ駆動力を生み出す”外燃機関”)は、
 ガソリンエンジンなどの”内燃機関”とは、決定的に異なる特徴がある
 ことに気が付かされたことを、思い出した。

 それは、先に書いた発進時の「動輪空転」の話ともつながるが、
 蒸気機関車には、いわゆる「エンスト」が無いということだった。

 つまり、どんなに重くなった客車でも、引き出時に必ず回り始める
 動輪が、レールとの粘着限界を超えた途端に激しい空転を起こし、
 前進する力の大半を失ってしまうことから、五感を研ぎ澄ませ
 空転の兆候を読み取りながら、エンジンのスロットル(アクセル)に
 相当する「加減弁」を、微妙にON・OFF(回転トルクに強弱を
 付ける)させて空転を抑える「発進テクニック」が、運転技量として
 求められることだった。
 ※運転手の腕の見せ所は、まさにこの「空転しない発進」にあった。

 ←冬の午後、傾いた日差しの中、2つの釜からたちこめる煙と石炭の
   においが、どこか懐かしさと郷愁をかもし出していた。



Rail Magazine 1985/12 ⇒ 金沢工業大学のSL(5分の1、3分の1スケール)のページへ